●1676年(延宝4年)に加賀藩・第五代藩主前田綱紀が「蓮池亭(れんちてい)」を造り、その庭を「蓮池庭(れんちてい)」と呼んだのが始まりとされ、13代藩主前田斉泰は1837年(天保8年)霞ヶ池を掘り広げて増庭させ、現在のものにほぼ近い形にしたとされる。「兼六園」の名称が定められたのもこの頃。
「蓮池庭」の、築庭された頃の呼称は「蓮池の上御露地(はすいけのうえおろじ)」と呼ばれ、来藩した客人や重臣たちの接待、あるいは観楓などの宴を楽しむ清遊の場として、大いに活用された。
歴代藩主や老臣に深く愛された蓮池庭であるが、1759年(宝暦九年)の大火で、一部が焼失し、その後、11代藩主・治脩(はるなが)によって、1774年(安永3年)に翠滝と夕顔亭、同5年には内橋亭の造営を行った。
蓮池庭上部にある平坦な地は「千歳台」と呼ばれ、その使い方は歴代藩主によって様々であり、千歳台は都度めまぐるしい変遷を遂げた。 藩政時代も半ばを過ぎた1792年(寛政四年)、治脩は藩校「明倫堂(めいりんどう)」と「経武館(けいぶかん)」を創建。治脩の後を継ぎ12代藩主となった前田斉広(なりなが)は、先代が開校した藩校を移転させ、1822年(文政五年)、その跡地に自己の隠居所「竹沢御殿」を造営。同年、庭園を「兼六園」と命名。「兼六園」の名称は宋代の詩人・李格非の『洛陽名園記』に由来するとされ、「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ね備える名園」との意味で、斉広の依頼に応じた当時の老中の奥州白河藩主・松平定信によって命名したとされている。
小立野台地の先端部に位置していることから、園内に自然の高低差がある。これによって、園路を登りつめていく際の幽邃な雰囲気と、高台にある霞ヶ池周辺の宏大さ、眼下の城下町の眺望を両立させている。
春夏秋冬それぞれに趣が深く、季節ごとに様々な表情を見せるが、特に雪に備えて行われる雪吊は冬の風物詩として情緒を添える。霞ヶ池を渡る石橋を琴に見立てて徽軫(ことじ)をなぞらえた徽軫灯籠(ことじとうろう)は、兼六園を代表する景観となっている。 1985年、国の特別名勝に指定される。 |